さて、石川県での使命を果たしたので、次の目的地・福井県に向かおうと思いましたが、
まだ午後4時なので、急がずに快適に走れそうな県道を選んでゆったり南下することにします。
何げに走らせていると、金沢市のお隣、小矢部市へ入りました。
金沢市のお隣ですが、小矢部市は富山県なんですね。。
つまり県庁所在地である金沢市は、富山県と接しているということになります。
県庁所在地が他県と接しているのは他にもあって、山形市・仙台市・京都市・大津市・佐賀市・福岡市がそうです。
なーんだ、特に珍しくもありませんなぁ。。
この小矢部市では気になる標識が何度か目に入りました。
これです↓
歴史国道ですって。しかもたった700m先。
これは行かねばなりますまい。
で、標識のとおりに走りましたが、それらしき風情がどこにも見当たりません。
間違えたかと思って、引き返して再度走ってみますが、はやりそれらしきものはない。
いったいこれはどういうことだ?
標識には道の駅とは書いてないものの、パーキングがあるようなので、そこへ行ってみました。
観光案内所のようですが、後で調べてみると道の駅だそうです。
客は一人もいませんでした。。
「義仲公戦勝の源」って、パッと見、意味がわかりませんね。
ここから少し離れた倶利伽羅 (くりから) 峠というところで、木曽義仲が平家を打ち破った戦場があるようです。
標識には「源平の郷」と書いてありましたが、郷と言ってしまっていいものかな? 戦場ですぜ。
ちなみに木曽義仲は、本名が源義仲です。文字通り源氏一族ですね。
源頼朝・義経兄弟のいとこにあたる人です。
1183年5月の倶利伽羅峠の戦いの後、一気に京都まで侵攻して、平家を追い出して都を手中に納めます。
でもその後がちょいと強引でした。
京都の治安維持に失敗したくせに、天皇継承に介入したりして朝廷の反感を買ってます。
翌年1月に、天皇に自分を大将軍に任命させ、軍事上の頂点に立ったものの、その6日後に源頼朝が派遣した鎌倉軍に敗れて全滅です。なんともあっけない天下でした。
義仲が任命された将軍職は征東大将軍というものでしたが、その後、源頼朝が鎌倉幕府を開くときに得た職位は征夷大将軍でした。
征東大将軍は縁起が悪いという朝廷の判断だったようで、義仲の朝廷からの嫌われ具合がよくわかります。
これより以降、征東大将軍という職位は全く使われなくなります。
そんな木曽義仲ですが、この案内所にはこんな↓ポスターが張ってありました。
NHK大河ドラマ放映実現に向けての署名活動をしていました。。
いやそれは別にいいんですけど、気になったのが文中の次の一節です。
「木曽義仲は、現代に生きる人々に勇気と希望を与える一つの象徴となるものであります。」
う〓ん......歴史物語としては面白いと思うんですけど、勇気と希望は......与えないんじゃないかな.......
いや、そもそもね、木曽義仲はここで戦ったというだけで、北陸の人じゃないんですぜ。
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