金華山ロープウェーで山頂に着きました。
岐阜城に辿り着く前に、展望レストランがあったので、そこで食事を取ることにしました。
↓展望レストランから岐阜市内を眺めながら食事です。
↓これが展望レストランから見える風景。
長良川が見えます。赤丸の辺りが古い町並みが残る河原町です。この後、行くことになります。
架かってる橋は長良橋ですが、この辺りが「鵜飼い」で有名なところです。
↓さて、いよいよ岐阜城天守へ向かいます。
ここはまだ勾配が緩やかですが。。。
↓そのうち、勾配がキツくなってきます。
せっかくロープウェー使ったのに、やっぱ少しは登山しなくちゃいかんわけですか。。
安土城での苦労がフラッシュバックしてきます。
↓さぁ、岐阜城天守が見えてきました!
青い空に天守が映えます。
この天守と展望レストランの位置関係ですが、後で撮影しておきました。
↓このようになってます。
結構離れてるんですよね。。この間に、さっきの勾配があったりするわけです。
中間にある施設はNHKの中継所です。
こんなところに築かれた岐阜城はさぞ堅牢な城塞だったんでしょう。
この城を築いた斎藤道三の時代、1547年に織田信秀(信長の父)が攻め入りましたが、麓で撃退されていますし、斎藤龍興(道三の孫)の時代、1561年にも織田信長が城攻めに失敗しています。織田家が父子二代で落とせなかった城なんですね。
ちなみにこの時代は、岐阜という名称はまだなく、稲葉山城と呼ばれていました。
ところが、この稲葉山城がいともあっさりと落ちてしまったことがあります。
1564年、斎藤家家臣の竹中半兵衛が謀反を起こして、たった一日で 城を占領してしまいました。半兵衛は別に城主になりたかったわけではなく、城主の斎藤龍興の不甲斐なさに決起したようで、半年後には龍興に城を返還してい ます。外から攻めるには難しい城ですけど、城主の統治能力に重大な欠陥があったわけです。まぁ当時、斎藤龍興は16歳だったということもあるんでしょうけど。。
おそらく、この事件で信長は内側から崩していく戦略に変えたんでしょう。1567年に再度城攻めをした時には、斎藤家の有力家臣であった稲葉良通、安藤守就、氏家直元を寝返らせて見事に稲葉山城攻略に成功します。 そして稲葉山城は岐阜城と改名されました。
さて、岐阜城に改名してからも何度か落城してるんですが、その話は後回しにして、天守のレポートを続けます。
↓これが天守入り口。
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