山陰ツーレポ(6)一乗谷
2014-05-01


福井市街観光を早々に切り上げて向かったのは、一乗谷朝倉氏遺跡です。
一乗谷は福井市内にありますが、福井市街とは全く別の歴史があります。
ほんとは去年の北陸ツーリングの時に訪れるつもりでした。

一乗谷は室町時代から約100年間、朝倉家5代にわたって繁栄した城下町でした。
場所はここ。↓
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元々、朝倉氏の初代・朝倉広景は、今の福井市内にあった黒丸城が居城だったようです。
この黒丸城は今では跡形もなくなっていて、黒丸城町という地名だけが残っています。
第7代の朝倉孝景の時に黒丸城から一乗谷に居城を移したそうです。
ちょうど京都が応仁の乱でメチャクチャになってた時です。

↓これが一乗谷。
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道の左側が一乗川。右側が住居跡です。谷に沿って1.7kmにわたって城下町が形成されていました。

しばらく進むと、遺跡として整備された場所があります。
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1995年に城下町の街並みが復元されたものです。19年前ですね。新しいです。決して歴史的建造物ではありません。
入場料210円を払って、中へ入ります。

↓これが城下町のメインストリート。
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城下町なので、武家屋敷だけじゃなく、町民の住居も混在しています。
左側が主に武家屋敷エリア。

↓復元された武家屋敷もあります。
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復元されているのはほんの少しで、大部分は↓このように当時の遺構が残っているだけです。
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さらにメインストリートを進みます。
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右側に並んでいるのは商店です。この町の商店街ですな。
この中で一軒だけは染物屋であることが判明しています。多くの染料が出土したからでしょう。
それ以外は何屋さんだったのか不明です。

応仁の乱で京都の町が破壊された時、ずいぶん都から一乗谷に人が逃げてきたようで、最大で一万人ぐらいの人口があったそうです。なので当時は、北ノ京とも呼ばれたらしい。←北京ではありません。

しかし、平和だったこの町も織田信長の軍勢に滅ぼされ、消滅してしまいます。
100年だけの都という点では、奥州・平泉と一緒ですね。
平泉は藤原氏滅亡後も町が存続しましたが、一乗谷は朝倉氏滅亡後、土砂に埋もれてしまいました。
歴史の刹那を感じます。

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さて、時刻も正午を過ぎてしまったので、そろそろ観光を切り上げねばなりませんが、
もう一つだけ、タウンマップに載ってた気になるスポットへ寄っていきます。
それは、一乗谷をさらに上流へさかのぼって行ったところにありました。

↓これです。
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