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さて、ゴルゴダの丘を登る前に、この公園の全貌を確認しておきます。
これが全体図です↓
墓は二つあって、キリストはんとイスキリはん。
このイスキリはんは、キリストはんの弟だそうですが、聖書には出てこないそうです。
ゴルゴダの丘を登り詰めると、ソレはありました。
↓
右がキリストはんの墓、左はイスキリはんの墓。
さらに階段を上がっていきます。
↓これがキリストはんのお墓。私は二回目の対面です。
十字架は木製です。盛り土とか白い柵は最近作ったっぽい。
後ろを見ると、そこには弟のイスキリはんのお墓があります。
↓
二人のお墓の写真の右上付近(赤矢印部分)には何か白っぽいものが写っていますが、
これはレンズに付いた水滴です。雨が降っていましたから。
決して、心霊現象ではありませんので、誤解なさらぬよう。
では、この墓の由来を解説します。心の準備をお願いします。
イエスキリストはんは21歳のとき、日本に渡り12年間、神学について修行を重ね、
33歳でユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いました。
しかし捕らえられ、十字架の刑を受けることになります。
この時、弟のイスキリはんが身代わりとなり、キリストはんは脱出したのでした。
哀れイスキリはんはそのまま刑死なさいます。
キリストはんは、ユーラシア大陸を横断し、再び日本に戻ってこの戸来村に定住します。
名前も十来太郎と改め、ミユ子という20歳の女性と結婚し、3人の娘ができます。
その後天寿を全うし、亡くなった時は106歳でした。。
以上は、キリストはんの遺言状に書かれているのだそうです。
何と言ってもキリストはんの生涯ですから、西暦できっかりとAD000年からAD106年までのお話。
日本では第11代垂仁天皇のとき。まだ大和朝廷すら成立していません。
このお話にツッコミを入れることは極力避けたいのですが、しかしこれだけは問わねばなりません。
イスキリはんのお墓がなぜここにあるのですか?
19年前にも不思議に思ったのですが、今回もその謎を解く鍵は見つけられませんでした。。
そして、このお話が史実を語っているとしたならば、確実に言えることがあります。
「全世界のキリスト教会にある十字架像は、イスキリはんということになります。」
はい、先を続けます。
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