さてさて、今回は弘前城についての報告。
今から19年前の昔、初めて東北をバイクツーリングした時、私はまだ20代でした。
その私に強烈なインパクトを与えてくれたのが弘前城でした。
弘前城天守の案内板の説明を読み、当時のお殿様の心中を察するや、目頭が熱くなったのを今でも覚えております。
あれから幾年月が流れ、弘前城天守を建てた津軽寧親(つがるやすちか)御歳45歳と同年代となった私は、再び弘前城を訪れたいと強く願うようになったのでした。
さて、弘前城を語る前に津軽藩に触れねばなりますまい。
津軽藩という名称は正式ではありません。正式には弘前藩です。弘前市が作ったパンフにも津軽藩と書いてあるのですから困ったもんです。
藩主が代々、津軽家であったため、自然にそう呼ばれるようになったんでしょう。津軽藩はいわゆる通称です。
ちなみに、江戸時代、一つの藩が一つの家系で維持されたのは、この弘前藩・津軽家と薩摩藩・島津家の二つのみ。
さて、弘前藩の初代藩主はこの人↓
弘前公園前に君臨しておられる津軽為信はん。
結構ダークな人で、青森・岩手地方を治めていた南部藩の家臣でしたが、お家騒動に乗じて挙兵し、
津軽地方をかすめ取った人です。一般にはこれを謀反と呼びますね。
裏工作も万全で、当時の大将軍・豊臣秀吉にうまく取り入って、領地を認めてもらいました。
ざっくり示すと、↓こんな感じになります。
赤枠内が元々の南部藩領でしたが、青色の部分をかっさらっていったわけです。
そりゃあ、南部藩は激怒するでしょうよ。
当然、この後、弘前藩と南部藩は犬猿の仲になります。
青森県を理解する上で、この歴史は重要です。
青森県は東と西が歴史的に分断されておるんですね。これは言葉にも反映していて、
弘前藩領は津軽弁、南部藩領は南部弁ということになります。←違いはわかりませんが。
さて、晴れて弘前藩が成立し、二代藩主の時に弘前城が築城されます(1609年)。
五層の立派な天守でした。
しかしっ!
完成からわずか16年後(1627年)に天守が焼失してしまいます。
このとき、1615年発布の武家諸法度によって、新規の築城は禁止されておりました。
藩主の嘆きたるや如何ほどであったでしょうや。。
それから200年もの間、弘前城には天守がありませんでした。
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